優しさとか

(再掲)

 

「20代後半くらいの人たちは“自己実現”について大きな関心がある。しかし今の若者は“自己認識”に関心がある。」というような文章をどこかで読んだ。何だか、すごく腑に落ちた。

 

「実は人生って、夢を忘れられるくらいには忙しくて面白い。“普通”に生きることって全然つまらなくないよ。案外夢は忘れられるし、楽しい生活は“普通”にできる。だけど、それってなんか虚しいじゃん。」3月の末頃に言われた言葉を思い出す。

 

特に夢、それこそ実現したい自己はない。
とにかく、ずっと楽しくいたい。色んな言葉を使っても結局そこに回帰する。

 

無知の知に毎日踊らされている。それに落ち込んだり楽しくなったり。

 

きっと100歳まで生きても、世界の5%も知ることは出来ないのだろうし、愛する人ができても、一生を費やしたってまるで分かり合えないのだろうな。分かり合えないことや、違いがあることを愛おしく思える人を大事にしたい。

 

強迫観念に囚われて生きている。「男なら〜すべき」、「みんなの(好印象を得る)ためには〜しなくちゃ」、「正しくあるために〜をしちゃいけない」、「自分はみんなのイメージ的に〜しないとだめ」、、、色んな考えが絶えず頭の中に溢れている。

 

だけど、何だかそれに白けた。漠然とした正しさのせいで辛いのなら、そんなの投げ出したい。社会なんて言われてもよく分からないし。
確かな手触りのある美しさ、幸せを見つめていたい。シニカルな態度と強迫観念、どちらも深く自分に根ざしている。でも、もういいや。

 

確かな、「優しさに殺られた」一瞬間があった。それは「God breathの導き」とも言えるものだ。この生はそれに至るための生であると感じるような。

(おそらく藤井風は“殺られた”先に新たな生があることを信じている。故の「優しさでよかった ただそれだけで」。)

 

https://youtu.be/vzhTpIIQR5I


“優しさ”について勘違いしたまま生きてきたなと思う。優しさとはお守りのような、神さまのようなものなのかもしれない。「神は細部に宿る」ように優しさも、眼差しや細やかな言葉遣いなどにひっそり宿っていて、珈琲を飲みながら歌がない曲を聴いているような一瞬間にふと思い出して気づくようなものなのかも。

 

始まりはいつだって大胆だけどその時は気が付かない。何が正しかったのか分かるのはだいたい来年くらい。世界は緩やかに変容していく。それでも、明らかな変化の一瞬間は絶対に存在する。人は変わる。世界はもっと素敵だ。

 

私とあなただけで世界はできていないけれど、私の姿はあなたの眼差しがあれば存在できる。資本主義にも感染症にも私の富は奪えない。水は海に向かって流れる。やがて日々は花束になる。唯一、美しさをずっと揺るぎなく信じられるのは交感の瞬間だ。それだけは疑いたくない。