ただいる

(再掲)

 

混迷の現代であることを、今や誰も否定しないだろう。どんな今を過ごせばいいのか、どんな未来を思い描けばいいのか、まるで分からない。統計も信じられない世の中、何のことならあなたは信じてる?

 

ずっと、煙と水について考えている。煙はいつか消えてしまう。水は海に向かって流れる。私たちはそのどちらにも抗うことができない。

 

花が美しいとき、私(たち)は花そのものに美しさを見出しているのか?それとも、私(たち)と花の交感の間に美しさを映し出しているのか?終わるから綺麗だと言ったあの花火が、永遠ならよかったのに。

 

ちょっとの勇気があれば手を繋げる、かもしれない関係性がある。青春とは、そのちょっとの勇気を持ってジャンプすること自体を指すのだと岡村靖幸は示唆する。10代である私たちはまだ、取り返しがつくらしい。危ないことがしたい気持ち。自分の中の危うさを可愛がる気持ち。

 

人と比べてもどうにもならないことは分かっている。それでも誰かの1番になりたい。確かに我儘かもしれないけど、それは美しいよ。

 

憧れた人がいる。愛してほしい人がいる。頑張る理由なんてほとんど、そういう人に近づくためだよな。

 

歩み寄るということは、分かり合えないということだ。泣きたくなるくらい寂しいけれど。それでも、似た形を見せ合うことはできる。1つになれないならせめて2つだけでいよう。

 

優しくするのと、優しくなるのは全然違う。行為ではなく状態としての”優しさ”、それは言葉そのものではなく、眼差しだったり響きだったりに宿る。時々それは電波や距離さえも飛び越える。

 

社交的でなければいけないことや自罰性といった様々な強迫観念。それらを剥がすと見える、愛されたいと今にも叫び出して泣きたい気持ち。暗い川を挟んで2つの私が孤独感に苛まれている。先輩たちの話を聞くところ、望むような救いは来ないらしい。

 

それでも、なぜ生きながらえているのか。運命も喪失感も、"今ここ"も、好き嫌い以前にただずっといる。友達になれるのかな。