Makers U-18 2021

<前提>

 

美しい文章はすでにこの世に腐るほどある。言葉で感動したければノルウェイの森を読めばいい。新たな視野を獲得したければカズオ・イシグロの新作を読めばいい。新世界を作りたいならホモ・デウスを読めばいい。つまり、俯瞰的に眺めれば僕が文章を書くことに意味や価値はない。ただ時間が奪われ電気エネルギーが使われ環境が悪化していくだけだ。内輪的な熱を開かせる必要は、PRの要請がない限りほとんどない。むしろ中途半端に内輪ノリをひけらかしても気味が悪いだけだろう。

 

そして極め付けに、言葉は真実を映さない。例えば僕たち。「今、ここ」から1週間くらい抜け出し嵐の中へ飛びこみ、たくさんの苦楽を体験した。そうして「今、ここ」へ帰ってきた。嵐が通り過ぎる前と状況はほとんど変わっていないに関わらず、その目に映る「今、ここ」は明らかに違う。しかしそれを言葉に表すのは難しい。色んな人のnoteを見たが、その言語化を完遂した人はまだ見ていない。

 

この世は全てがフィクションであり、全てが何かのメタファーだ。カップラーメンにお湯を注ぐ丁寧さはコーヒーを淹れる技術と繋がるし、授業のノートを上手に取るテクニックの大部分は人の話を上手に聞くテクニックへと転用できる。何もかもが無意味であると同時にささやかな希望として意味を持っている。そう、いつだって言葉は二面性を内在している。希望と絶望、破壊と再生、勝者と敗者、男性性と女性性。最後者が象徴的だが、極端な二面を眼差しているだけでは分断を加速させるだけだ。大事なのは、それがグラデーションを持っていること。曖昧さを肯定すること。素晴らしいけど、その途方もなさに目眩がする。

 

つまり、言葉は無力なのだ。ただの器であり、頼りない再現装置でしかない。しかし厄介なことに、無力というのも言葉だ。その引き裂かれるような矛盾を眼差してようやく、僕は自分の言葉で語り出す自分を肯定できる。

 

<参加前>

 

起業家高校生が好きじゃなかった。自分は与えられたコミュニティ(学校のクラスや部活や...)に馴染めきれなかったという卑屈さと、そういった人たちにはなし得なかったことを自分はしているのだという歪んだ強がり、他者を蹴落とした自己肯定の形を取っている人が多いように感じられていたからだ(よく僕は選民思想ルサンチマンを履き違えた奴らと呼称している)。

そしてこれには同族嫌悪があることを僕は否定できない。でも、これを否定できる人いないでしょ?社会と教育が今の形を取っている限り僕らは競争から逃れられないし、自分の幸せは誰かの不幸せを相対的に眺めて、時には犠牲にして成り立っていることは事実だ。嫌なら目を逸らすしかない。目を逸らす自分に嫌悪感があるなら、なるべく誠実に眼差しを向けるほかない。僕らは不完全な人間だから100%の愛も誠実さも持っていないし、幸せに満たされることは極めて難しいのだろうけど、他に道が思い浮かばない。抗不安のために何をしよう。死にたいわけではないが、生きたいわけでもない。やりたいことやわがままに付き合ってくれる友達がいて、一緒に思い出を作れる現在に美しさを見出せているから生の方向に活力が向く。そんな日々だった(今でも変わらない)。

 

漠然と好きじゃない所謂“起業家高校生”的な人たち、そのモヤモヤとした嫌悪感が自分の中で渦巻いているのが嫌だった。嫌うならちゃんと嫌う理由を抱きたい。好きになれるなら好きになりたい。星野源の歌詞からの引用だが「無駄だ ここは元から楽しい地獄だ 生まれ落ちた時から出口はないんだ」。ならば、少しでも世界を愛するために好きだと思えるものを増やすことが大切だ。好きが増えれば世界は今以上に輝く。新たな好奇心を得るため、自分の中で断絶の線を引いてしまっていた属性の人間を真っ直ぐ眼差すため、東京へ行き様々なアクションを起こすため、そのために応募した。

 

応募を決意した時には募集締め切りの1時間前だった。記述欄がたくさんあることにその時気がついた。幼馴染に電話をかけ、タイムアタックだと自分に言い聞かせて文章を紡いでいった。今までに書いてきた文章を参考に現在の気持ちや挑発的な態度を織り込みながら、締め切りの2分前にギリギリ完成。文章の細部は拙いが、内容的には自信があった。これで落とすならMakersもセンスがないなと思いながら眠りについた。

 

Zoomでの面接日程を決めるメールが届き、あまり準備することなく面接に挑んだ。その後、アジェンダワークでメンターをしてもらう詩歩さんが担当してくれた。自由に時間と画面共有の権利をもらったので自分で書いたnoteに沿って今までやってきたことを話した。「君さー、文章と喋る感じ全然違うね。」と言われる。持ち前の自信とアドリブ力で喋りたいように喋らせてもらい、手応えを少しは感じながら終了。高校の先輩に「多分受かったわ〜」とLINEを送る。

 

「ハミダシ高校生ってなんだよ嫌な言葉だなぁ」「ホームページ、かっこいいこと書いてあるけど内容圧縮させたら何も書いてないじゃねぇか」などと言葉の細部にグチグチ言う日々を過ごしていると合格のメール。その夜は五体投地しました(尺度として機能していたところやフレーズとしてのポップさはイベントで痛感下が、終了しても全然、言葉は好きになれていない)。

 

<アジェンダワーク>

 

破壊と再生のサイクルを繰り返す日々。正しさの敵は別の正しさなのです!0→1がなんとか...って言う人がいるけど、その+1を生み出す発想は生活の中で取得した経験に由来するでしょ?ならそれは0から生み出していなくないですか。要するに、僕らは2020年代にここで生きている時点で誰かの模倣品であることを否めないんだと思っています。様々な要素のコラージュアートとしての"私"。ならその要素同士が検討もつかないところから繋がり合えば独自性を獲得できるよね。そうやって自分にしっくりくる要素を積み上げていくこと。

 

そういう考え方の上で3日間、めちゃくちゃ楽しかった。自分では打ち立てられない独自性を獲得している同世代の人たち。年齢にこだわりはあまりないけど、似たアンテナで違うものを受信してきている、つまりワクワクできそうな確率が高いから面白い同世代が大好きです。集合知を感じる機会も多かった。フランス語の文献に当たれる人間がいるなんて。

 

試行錯誤できる環境だったから、試行錯誤をしていた。それでもし迷惑をかけた人がいたなら、ごめんなさい。自分なりに、懸命になりながら走った3日だった。その選択に正しさもどうしようもない間違いもあった。それはもう、ただただ事実だ。以上も以下もあるけど、どうだっていい。

 

しかしこれは、焦点をズラすと「僕らはどうしようもなく別の人間だ」ということへの眼差しでもある。分かり合えなさへの諦観。心の壁を作ってしまっていた。壁を溶かしたい意思は色んな人に話せた(自己開示が苦手な僕としてはすごいことだ ありがとう)が、それ以上に何かはなかった。「〜しよう」というあらゆる行動は、脳が考えだす前から始まっている。つまり脳は行動結果を写す鏡でしかなく、そこに真の意味で自由意志はない。ということを3年前くらいに本で読んだことがある。僕たちはアーキテクチャの奴隷なのだろうか? 

 

人に期待しないことはできないが、夢を見続けられなくもなってきたと思う。痛みや切なさに慣れてくる。そのタフさはどうしようもなく寂しい。人を見て、自分を見て、その違いを眺めて、時には責めて。ずっと自己分析をしていた3日だったなぁと思う。後半3日の何倍も自分を見ていた。

 

<ブレイクタイム>

 

アジェンダワークが終わってからZoomでのイベントに移り変わるまでの間、色んな人と色んな話をした。大勢でいる時と2人でいる時で印象がガラッと変わる人、見ていて辛くなる人、惚れ惚れするほど美しい反面、どこか哀しさが引っかかる人、一緒にいる時の自分が好きと思える人、言葉と違う領域での、確かな交感ができた人、共通言語が全然見つからない人、、、色んな人がいて、色んな喜びがあって、色んなブルースがあって、色んな折り合いの付け方があるなぁと思っていた。

 

アジェンダワークが終わた途端にトロトロになる人。夜が更けるにつれて隠していた影が濃くなる人。自らを軽薄だと思って内省する人。シラフに戻った時の虚無感に怯えパーティーをやめない人。ガストでずっとニヤニヤしている人。そんな中、自分は何なのだろう。ずっと考えていた。諸行無常な世界だということは散々痛感してきたのに、懲りずに人と繋がりたくなるのを、生殖本能が蛇行運転しているだけと片付けたくない。

 

人間みんな様々な面があって、その一面だけで断罪してはいけないと常々思う。しかし正しさだけでは息ができない。「テロリストだって友達と仲良くできる優しさがあるんだから、その面を見つめて許していこうよ」なんて、涼しい顔して言っていられないのが僕らの住む「今、ここ」だ。しかし、諦めないことが大事なのではないか。そう感じた。しかしそれは満たされるまで途方もないことを意味している。虚無感を抱え続けること。冷笑主義に浸っていると自認のある僕にとっては向き合うことに苦しみが生じる。しかし向き合わない選択肢も別の苦しみを内包している。これからどうしよう。迷うというよりは、導かれるのはどちらなのかそわそわしている。多分きっと、わかるのは来年あたりなんだろうか。その頃には、祝いたい。

 

<オンラインセッション>

 

言葉への不信用と過度な期待、さらには人との繋がりを病的に求めてしまう僕にとってオンラインは本当に苦手だ。見えるものが限られる。想像力を働かせる気にもなれないくらいに。まぁそれは適合しないといけないのだろうな。。。(毎日寝落ちていた、まじでゆうなさんゴメン)

 

黒越さんの言葉と向き合い方がとても好きだった。大事なことはチャットに書いてくれたり、逡巡を超越した先からの、人生の先輩からのアドバイス。励みになった。アンリさんの楽しそうな姿勢と、諦めるものは諦める冷淡な姿勢の共存はゾクゾクした。引き裂かれることなくそれを受け入れているのは乗り越えたからなのか、諦めたからなのか、そもそも僕がアンリさんじゃないからなのか。メルカリの社長と宮城さんは、話せていないことも大きいが何も分からなかった。そんなことを言ってしまえば誰のこともわかっていないけれど、そのお二人は、ただいるなぁと思っただけで終わってしまった。うーん、別に何も後悔していないけど、みんな感銘を受けていてすごいなぁって思う。自分はお話を聞いていたらどう感じたのだろう、それだけに関心がある。

 

最終日、コミュニティがフェードアウトしないために1日をかけることに驚きと感動を覚えていた。僕はずっと、いつか終わってしまうからとニヒルな態度で接していたが、気づけば「この関係がずっと祝祭的なまま、形骸化することなく美しいまま、続きますように」と祈っていた。アルケーは水だ。万物は抗えることなく流れていく。小さな悲しみは大きな悲しみの海へと至る。その中でできることは、良いことを決意するくらい。そして祈ることくらいだ。

 

<終わり>

 

何を得たのかは分からない。限界値を超える勢いの自己肯定感の高さと、擦り切れるくらい失われている自己愛の不足に引き裂かれゆらゆらする日々は続いている。今でも音楽に逃避を求めてしまう。

しかし、役割が流動的であり(それは関係性が確立してないからかもしれないけど!)、それぞれにそれぞれの、しかし一定以上の想像力があり、不安定な世界を見つめられている場所があったこと、そこにいた自分が様々な揺らぎ、気付き、苛立ち、喜び、劣等感、優越感、無敵感、希死念慮の上で踊り続けたことは自覚し続けたい。きっとすぐにこれは過去になる。今よりもっと美化された思い出になる。喪失は避けられない。喪失は喜ばなくちゃいけないって菊地成孔の言葉。

 

未来は過去の意味合いを変えることができる。それは恐怖でもあり希望でもある。30年後の未来が楽しければいいな。そう祈るばかり。

 

https://youtu.be/pSuTnLE1Vio

 

追記: https://note.com/blond/n/n78bb5f268097