2020 Blue.

「It's All Over Now, Baby Blue.」ボブ・ディランが寂しげに弾き語るアルバム最後の曲。全ては終わったんだよ、と1965年の声。

 

全て終わってしまうから、という諦観がある。"私"と"あなた"だけしかいない世界はやがて引き裂かれる。不健康だから。「It will be all over, baby blue.」出会いの数だけ別れがあるという言葉の残酷さ。喪失は全て"喪失の獲得"である、なんて菊地成孔がラジオで喋っていた。友人が髪を切ったことに気が付けなかった。「You cut your hair but you used to live a blonded(=blinded) life.」永遠が欲しい。最果てが見たい。決して引き裂かれないために一つになりたい。

 

「愛されたいね」って言葉の響きが虚しくなかったことがない。「愛するということは、愛するその人を通して見る世界、その人がいる世界が輝いてたまらないということだ。」なんてエーリッヒ・フロムの名言。お見それしました。でも、その輝きは花火のようにすぐ消えてしまう。人生は花火じゃないから、美しさや快感には後処理が必要だ。それはもう、ただただ虚しい。かといって、何もキラキラしない世界は死にたいなんてレベルじゃなく退屈で、心の揺れない人生に価値はないのだと思う。暴動がしたい。

 

結局、自分のことなんて全然分からない。構造や文脈を頼りに分析を試みるけれど、そうやって強がりのために身につけたものを全て引き剥がした時、自分は一体どんな姿なのだろう。なんて思う。もしも、ぼくのりりっくのぼうよみのアルバムを聞かずに生きてきたら、もしも、小袋成彬に全く関心を持たずに生きてきたら。自分が自分を監視カメラで見てるような気持ち、という表現はぼくりりの1stアルバムリリース時のインタビューで見た言葉で、騒いだり冷めたりと何人も自分がいて脳内で戦い合っているコンセプトは小袋成彬の表現だ。今では身体化してしまったけれど、それが身についたのは経験や宿命ではなく、模倣の成果だ。私ではない。私が、私として得たシグネイチャーは何だろう。

 

あらゆる模倣を取り払い、実際に起きた体験と後悔を素直に感じ取り続けた末にいる自分はどんな顔をしているのだろう。泣いているだろうな。今まで傍観者を気取ってたくさんの人が傷つけた。傷つく様をただ眺めていた。罪悪感は人並みに。後悔は過多に。反省はほんの少し。そんな感じ。

 

人にプレゼントすることが好きなのは、自分に価値があるような気持ちになれるからだ。誰かにとって、明確に価値あることをできているという安心。裏を返せば自分という存在が相手にとって愛を送るに値しないと思われているのではないかという恐怖。いつか返すねと言われたものが返ってこないことが多い。きっと見くびられているのだろうな。よく人から言われる私の優しさの正体は、ただの恐れの感情だ。愛の渇望と拒否されることへの恐怖。自己承認欲求なんて卑しい言葉でまとめたくないけれど、その言葉が示すものからこの感情は遠くないことを否定できない。

 

父親は、機嫌が悪いと人格を否定する言葉を軽々と吐く人間だ。基本的に一緒に遊んでくれるし、よくご飯に連れていってくれるから嫌いではないけれど、ここまで私が自分の人格を空虚なもの、透明なものとして認識する要因に恐喝への恐れがある。カーステレオのBluetooth接続が何も言葉を発されないまま切断され、自分の好きな音楽が否定された瞬間にフラッシュバックする恐ろしさは、同じ質感を持って生活の様々に潜んでいる。

 

小さい頃から、作り話が好きだった。iPhone4のメモ帳に自作のヒーローを考えているような幼年時だった。ターゲット層である私が考えるヒーローなのだから人気になるに違いないだろう。企画者たちに私のこれを見せたいなぁといつも考えていた。妹と2段ベッドで眠っていた頃は自作のファンタジーを言い聞かせながら眠りについていた。ファンタジーやヒロイズムへの逃避願望はずっと、根底にある。

 

中学生の時に真正面から恋愛をした際には、堰き止めていた感情が流れ出して相手が好きという気持ちで胸がいっぱいになった。高校の3年間は、ずっと感情が虚無の果てへと漏れ続けるような日々だった。今でもオイディプス王のような、もしくはカフカ少年のような、「もしかしたらこの人は私の救世主かもしれない」という期待を日々、数多の人々へ重ね、失望し、沈んでいる。私は、私よりも愛が重たい人間を他に知らない。

 

とても小さな、願掛けのよう依存を多くの人へ託すことで、生き抜いてきた。人に過剰に期待する一方、絶望に打ちひしがれないために壁を作ってしまう。確かな友情や繋がりだと思うけれど、その関係性は総じてどこかやはり、虚しい。希死念慮が顕在化した時には、多くの人々から支えてもらっていることを痛感する一方、それぞれの繋がりが脆いことも同時に感じ、絶望を深めた。

 

気付きたくないことに気がついてしまったり、現実での失望が夢の中でハッピーエンドで再演されてひどく陰鬱な気持ちで生きたり、伝えたいことが伝わらなかったり、伝えることを諦めてしまったり、どうしようもない夜に電話をする相手が忙しくなったり、いなくなったり、する。気がつけば咳をしても1人。それはもともとかもしれない。笑 

 

これは自分ではない誰かの役割なのだ。と分かる瞬間がある。ここにいるべきは自分ではない。自分がいてはならない席ではないかもしれない。だけど、私も他者も満たされない状態を作り上げてしまうということに気づくことがある。「Not for me.」私は私を真の意味で全く無価値に感じているのかもしれない。深層心理や癖について、自らの眼差しの形について、私は私のことはまるで理解していない。私が、私の役割はこれであると感じられる瞬間って本当に少ない。世界は私を待っていない。という前提。

 

名前を呼ばれること。名前を呼ぶという決心がされたこと。それだけで嬉しくなる自分はきっとどこか感情が貧しいのだと思う。貧しさは不幸の由来となることが多いけれど、時に幸せを招くこともある。何でもないようなことが幸せだったと思う、ロードの歌詞は重い。

 

どこかゆらゆらとした浮遊感がある。自分というものが否定されるような瞬間、もしくは説教されていた少年期、辛くてたまらなくなると自分という器から魂が抜けるような感覚があった。視界が斜めになって、どこか俯瞰的になり、見える世界が渦巻き始める。その感覚がデフォルトに存在するようになっているかもしれない。まるで水の中に沈んでいるような、何かの中に脳みそが浸されているような感覚。

 

全てが終わると思っているからこそ、無駄なことなんてないと思っている。それは逆説的に全てが無駄だと思っているからだろうな。私が何かを残すことで人に影響を与えれるのだろうか。きっと今死んでも3ヶ月後にはみんなおいしくラーメンを食べている。ふと、新しいパーカーが買いたいというくらいの気軽さで死にたいと思う。歪んだ構造に組み込まれた私に、あまり明るい未来が見えない。セカイ系の衰退の理由は、世界を変えるのではなく自己を変革するという考えがオカルトに接近した結果、社会を壊すカルトへと変貌する危険性が実際に顕れたからだという考察を最近見た。本当に死にたくなった。魂の解放なんて本当に胡散臭い言葉だけど、私がやりたいことは、きっとそういう言葉に形容されるようなことだ。

 

何をすれば人は私を愛してくれるのだろう。大概のことは器用にできるし、希死念慮からの逃走や解毒も慣れたものだけれど、人から愛されることだけは本当に分からない。憧れられたり、頼りにされたり、何かしらポジティブな感情が向けられていることを感じることはある。しかしそれは、まるで第三世界のように1つ、レイヤーがある。絶対的な"あなた"の世界から除け者にされている。私の世界に私以外の人間がいない。誰も私の背中が見えていないように思う。

 

ある程度ある。四捨五入すれば幸せな生活を過ごしている。しかし、満たされない。曖昧に引き裂かれた感情のまま、ゆらゆらと生きている。