煌びやか

些細なことで葛藤している。体を先に洗うか、髪の毛を先に洗うかだったり、散歩に出るか、暖房の前でぬくぬく暇を過ごすかだったり、友達に連絡を取ろうか、取らないでおこうかだったり。小さなことに目を向ければやはり人生とは選択の連続で、ifの並行世界は無限に広がっているんだなと痛感する。あの時泣けていたら、弱音を吐けていたら、もっと威勢を張れていたら、もっと力があれば、いろんなことを考えては、ちょっぴりの後悔と今への慈しみを感じている。

 

1月が終わった。時間というのはどうして極端に長く感じるか短く感じるかの2択なんだろう。見えない誰かのことを祈ることが多いひと月だった。それは並行世界の自分だったり、今は会えないけど同じ世界で頑張っている友人であったりした。

 

倫理について最近、少し考える。公共のために奉仕する精神をあまり理解できていない。中学生の時に教科書を読んで、概念を知りはしたけれど、それ以上に何かはない。CDをたくさんくれた友人の父親や、豪勢なディナーをご馳走してくれた父くらい歳の離れた大人など、先輩方から何かを引き継いで「私」がいる感覚はあるのだけど、そこに公共という大きな概念の姿をあまりみていない。

 

ずっと私の中に、「私」も「公共」もハイジャックしてやる、という気持ちがある。自由意志や決定する力が自分にあるのかは分からないし、「私」を私たらしめるものも見当つかないけれど、だからこそ自分でそのような曖昧なシステムを乗りこなしてやる、と考えている。相手からのギフトを無根拠に確信して、それについて純粋に喜び、驚かされていたい。あくまで絶対常識の範囲内でね。と最近は強く思う。

 

加速主義に絡め取られることへの恐怖がある。大きな流れに乗ることで、いつのまにか大きな波にコントロール権を奪われてしまうことへの恐怖。それによって、本来守りたい自分の信念や友人を傷つけるかもしれないということ。カッコよくありたいけどそれは難しい、だとしても、自分にとって自分がダサくならないことをとても意識する。心から自分を愛したいと今は思う。愛するという「技術」は難しいからこそ、私はそれを修練したいと思った。

 

ディスコ・ファンクの煌びやかな輝きと、それが永遠に続かないことへの儚さ、切なさ。最近はBruno Marsが好きだ。一切は終わってしまうということを信じたくないが諦めるべきなんだろうな。変わり続けることが変わらないための第一条件なんだと思う。寂しいね。

 

共依存ではなく、共助の関係性。愛し愛される関係性。たとえそれがビジネスの観点からしてナンセンスだとしても、どれだけ難しいことだとしても、持っていたい。よくわからないシステムに絡め取られたくない。不惑という言葉はとても難しいのだろうけど、愛と不惑を念頭に置いて生きたい。