ブロンド(A)

自分を含めてみんな、期待しすぎだと思う。誰にでも見える140文字に本当のことなんて書くわけないじゃないか。

だけど100%の嘘なんてないのもまた事実だ。だって表現は表現である時点で他者が存在しているし、その表現を用いたことは真実となってしまうのだから。結局みんな0でも100でもないつまらなさの中で生きている。つまらなさの集積の中に真実はあるし、一つの要素で何かを見定めることはできない。象徴はあくまで象徴であり、それ以上の意味を持つことは多くない。

 

愛されたいという言葉は何も言っていないのと同じだと思う。だけど何も言わないことが悪いこととは思わない。だって、何も言えないくらい最悪じゃないか。恋人じゃなくて父性だったり、母性だったりが欲しいのだろうなって人を眺めて胸が引き裂かれること、あと何回すればいい?自分の中でそういう気分を見つけて自己嫌悪に苛まれるのを、あと何回すればいい?

 

生きてりゃ嫌なことたっくさんあるけど、それを人に向ける邪悪さと醜さ。辟易しています。どこもかしこも汚い。みんな頑張ってることは知ってるけど、実際あんまり分かってない。でも俺以上に分かってないバカたちがそうやって気持ち悪い連鎖を紡いでるんだろうな。できるだけ好奇心で世の中をキラキラ眺めていたい。煌びやかさに酩酊していたい。じゃないと死にたくなるので(笑)

 

自分の人生を厚みのある物語と捉えられている皆さん、すごいです。誰もが自分の人生のアマチュアなんだよ。精神的な逡巡を誇るの、とっても可愛らしいです。破壊と再生、喪失と獲得を繰り返してるだけじゃん。何を得たのか並べてみたら、何もないことに気づく。まぁ、主観の押し付けが1番汚らわしいか(笑)2回連続で自嘲でオチるのは甘えですね。うーむ。

 

みんな新型の一眼レフと新作のエアフォースのために頑張っててすごい。シャッター速度は羨ましいし俺もNikeの靴は好きだけど、疲れない?疲れないのか。どうしてこんなにも熱狂に乗れないのだろう。ずっとくたびれている。この世はもっと素敵なはずっていうのは、今の世界がみんなにとって素敵だとしてもNot for meと感じているから言っています。まじでケラケラ毎日笑ってるけどさ、ハイだけどね(笑)じゃないと落ちるじゃん。俺が落ちても誰も面倒見てくれないでしょ。なのにみんな優しく声だけかけてくるじゃん。どうせなら肩くらい叩けよな〜。繋がりは感じられないまま今日。

 

くだらない共創意識に、くだらない選民意識。みんな俺のことは気にしていない、でも気にしている。どうでもいいよ。みんな俺のことが中途半端に好きだよね。色んなことをやいのやいの言って、企みかけて、消えていく。疲れる(笑)あなたと話すより藤井風聞いてる方が学びあるわ〜って人たっくさんいるよね!これは自分にまっすぐ跳ね返ってくるのですが......

 

みんなの好きなように俺を見せてあげるよって気持ちがある。みんなの好きにしなよ。そこにもどこにも俺はないし。オリジナルなんて無いよ。庵野さんが言ってるって知る前から俺も思ってる。自由に引き裂いてくれ。もう飽きましたし、諦めました。秋風記が参考書かな。

 

トキヤって友達が「どこに生きているの?」ってsnsに書いていた。最初はうるせえなって思ってたけど、すごく心にくる。どこに生きているんだ?いったい俺は何をしているんだ?何がしたいんだ?全てわからない。悪魔が体を乗っ取っているとか、そういうわかりやすい悲劇が欲しい。けどみんな、何かに取り憑かれているよね。かつて好きだった人が俺の周りにはたくさんいます。今に生きていないな俺は。4月になれば色んなことが過去になって、喪失は風化していって、また強がることになるんだろうな。アユミが遠い場所に行くこと、すごく怖いのかもしれない。

 

雨、煌めき、世の中には影があるから光がある。嫌いと好きはセットだし、快感には後処理が必要だ。

 

踊ることと生きることが同義というのはすごく頷ける。みんなが踊っている。決して一つになれないことを悲しみながら踊っている。全ての音は舞踏歌だし、ある種の鎮魂歌だ。欠落は原罪だと信じている。じゃないと辛すぎるだろ。

 

大事な人になるということ、欠落を埋める存在になることを求めている。"彼"に俺がなれる未来を想像できない。でも愛を育む。その矛盾はあるのか?無いだろ(笑)別に誰が誰のことを思って寝ているかとか、誰が誰と寝てるとか知りたくも無いけど、その美しさと気まずさは受け入れたい。受け入れることは自分を許すことだろう。

 

みんな何かしらに引き裂かれているし、孤独に首を絞められているから、生きるためになりふり構っていられないんだろう。別にそのために俺を踏み台にしても諦めてるからいいけど、ならせめて楽しそうにあれよって思う。競争社会、行きすぎた資本主義に期待はしていないし、権威をうまくハイジャックして乗り越える他に生きる道はないと思ってるけど、そのキモいシステムに縋り付くなら縋り付くなりに惨めさを出してくんなよ。自分もうまく乗りこなしていないから大馬鹿なんだけどさ、みんなも馬鹿だよ。

 

別にいつでも俺は"あなた"のことを嫌うことができるし、"あなた"も俺を嫌うことが当然できる。でもどこか精神的な結びつきを(本当にあるかわからないのに)期待してしまうから、ほっそい線で繋がっている。心の奥底で共鳴したと錯覚したことは、果たして良かったのかさらなる不幸となったのか、わかるのはだいたい来年くらいだろうな。それまでみんな生きててほしい。(心の奥底から思えているのか?)何もかもしょうもないよな、でも俺らは絶対に友達だった。愛なんか紙とペン以外で伝えてたまるか。神も天もないね〜って思います。

 

自分の中の肉体的な欲求はあるけど、それを汚いと過度に思ってしまっているし、男性性の中の弱さを本当に軽蔑している。というより軽蔑しないといけないという巨大な強迫観念がある。

 

強迫観念。

 

自己開示ができない。誰のことも信じられていない気がする。少なくとも泣くほど弱くなれる人はいない。頭を撫でられたいというような弱さを自分の中に見出せるけど、見出したところでそれを認めて表出できない。その塞がりようを惨めだね〜って悲しむくらいだ。

 

言う必要のないことを言ってしまう。それは一つの安心なのだけど、相手にとって知ったこっちゃ無いだろう。ただ傷つけているだけ。ごめんなさい。あまのじゃくだからで許されるのは10年くらい前に通り過ぎた。

 

大人びた子供でいたいと強く思っている。決して居続けられない席。少なくとも周囲は大人になっていく。今のままだとわがままなガキになるか、(真に)つまらない大人になるかの2択なんだろうな。俺は俺なので、今の俺のままいたら面白い未来がありません。

 

幸せな夢、ifの夢をよく見る。起きて落ち込む。この世界が好きだけど、並行世界に思いを馳せてしまう。この世はもっと素敵なはず!ずっと夢に見てるよ。

 

毎日は続いていく。何らかの確かさを持って続いていく。自分でコントロールできることは手で掴めることくらい、つまりほんのわずかだ。今の俺が盲目状態なのも分かってる。それでもそれにしがみついてるのは幼稚だからなんだろうな。

 

空を飛びたいし、楽になりたい。誰かの中で眠りたいし、ここだけが居場所って思えるほど何かに無我夢中になりたい。我が無くなるほど夢の中に。すごいなぁ。

 

寒いと孤独を感じるから冬が嫌いだ。自分は孤独であると感覚レベルで思い知る。たとえ冬でも人生は進むし、友達は輝くし、競走は行われるし、寒暖差はあるのだけど。気がつけば誰かは宙に飛んでいるし、誰かは光り輝いているし、俺は誰かを見下していたと気づく。

 

正しそうなことばっかり!正しいことは寒いことくらいだ。感覚だって不確かか?一回「愛」っぽいものをもらうと犬みたいに期待してしまう。疲れる。それが無いと消え失せるんだけどさ。愛を込めて、親愛なる人よ。親愛(笑)ここからはずっと下り坂だよってフランクオーシャンが思い返します。川はより大きな海に繋がっている。小さな悲しみは、大きな悲しみに取り込まれていきます。私たちの孤独は、巨大なものに引き裂かれ続けています。そりゃ痛いわ!

 

永遠なんて一つもないんだろう?友情も恋愛も終わるなら恋愛でいいじゃん。うるせー。全然に異性愛者な自分を悲しむ気持ち悪さ。普通って何。タバコもアルコールも酔えません。ずっと自分に酔ってるから?どうせ酔えない美酒。怒らないでよ。これが人生さ、人生は永遠に続くのさ。

 

他の誰かになりたい気持ちがある。スーパーマンになりたいよね。でもアイツみたいなのはやだよ。きしょいもん(笑)美しさ〜。自分自身の決断を信じるのよって留守電、俺には来ない。ボイスメッセージが女の子からLINEで届く人生にならないかな〜。CALL ME BYE!!!

 

孤独が深まると性欲が消える。最近とか(笑)男女の友情あんまり信じられないけど、性対象としてより母性の対象として眼差しを持ってしまう方が弊害だと思います!!!死ぬまで満たされないのかな〜、嫌だな〜。寂しいね!でも俺たち孤独なだけでいられないでしょ。だから孤独を寄せ合って"孤独な人たち"になってるんでしょ。惨めかも知れないけど、元々だしねぇ。うわっ、山岡屋食べたい。

 

ここは地球の地獄だよ、街は、もはや街じゃなくて個々人の絶対領域に染み入るくらい、どこもかしこもが怒りで溢れてる。

葉っぱでもいいし、自己陶酔でもいいし、カフェインでもいいし、都合とステータスの良い異性でもいいから取り込むんだ。地獄の中にも天国はあるからさ。

 

1人っきり、孤独。満たされない。報われない。

 

1人なら自分を清潔にしなくてもいいし、自制に意味なんてないのだろうけど。誰かに愛されたすぎて、故に自制心が大きい。惨めだね〜!射精にだって金がかかるし...って言ってたね。いわゆる「白い柵」、手に入れられるのかなぁ。幸せな結婚を見つけられるのかなぁ。

 

札幌の夜でもお楽しみをやりたかったけど、みんな怒ってたし、強がりは強がりのままだったし、俺はひとりなままだったし、なんか、ね(笑)

 

生き続ける。生き延びるんだ。がんばろー。でもさ、なんで生き延びるのか分からなくなって来ている。全然気軽に生き延びられるのに何必死になってるんだ?って考えてしまう。奇行に走りたい気持ちは、生存を、実存を確かめたいからなのかもね。実存、確かにないもんな〜!!!!!!!いてもいなくても変わりません。

 

ゆっくり時間をかけて、長期的な視野で眺めることの難しさ。きっとみんなより俺はそれを意識してしまっている。あまりいいことじゃない。みんな〜!この刹那を信じられる?

 

吸って、ぼんやりしている。心臓が痛い。連絡すれば出てくれる?答え聞くの怖いから何もできないや。我を忘れたいね。ずっと何をしても俺がいるんだ。いったい何人俺がいるんだ?超自我は大きいね。大きすぎて死ね!って思う、うおっ、泣きそ〜(笑)朝までずっと抱きしめてくれ〜!俺も惨めな人間(それが普通なのかもね、普通も変もわからない、俺には何もわからないけど)なので同性にそれを望めなくて、卑しいな〜って自分で思います。

 

不安にさせてしまった多くの人たち、期待に添えなかった多くの人たち。ごめんなさい。満たされないのは相手を満たせられない自分のせいな気がする。近くに住んでいるなら弱みを見せられるのかな、きっとそんなこともないのだろう。お得意の自己正当化でまた壁を作るんだろうな。

 

居場所をくれよ。俺は居場所が欲しいんだ、自分の居場所がね。

 

嫉妬深いし、人のことを信じていない。絶対に報われないじゃん(笑)絶対なんてないんだろうけど、でも高確率で無理だなぁ。

 

時々は、"君"も恋しくなったりしてるのかなぁ。全然想像できないな。孤独は俺だけのものって思うのも一種の傲慢?気持ち悪いなぁつくづく。自己肯定感が育てられても自己愛はしばらく受け入れられない。涙を俺の代わりに流してくれたメイには感謝しないといけない。これもゲームなのか?

 

文面と見た目のイメージが全然違う。んだろうなぁ。引き裂かれている。きっと全部俺じゃない。というのは自己弁護で全部自分だ。そして全部見せかけだ。その実空洞なんだろう。廃人間際。まぁみんなそうでしょ、それを誇りませんよ。って言う客観視自体自己陶酔?低音加熱みたいなテンション。死んでくれ。夜遊びで火傷するくらいが丁度いいのだろうけど、そんな人生が来る気がしません。報われないし、溺れることもできない。もう自分の気持ちもよくわからないんだ。

 

煌びやか

些細なことで葛藤している。体を先に洗うか、髪の毛を先に洗うかだったり、散歩に出るか、暖房の前でぬくぬく暇を過ごすかだったり、友達に連絡を取ろうか、取らないでおこうかだったり。小さなことに目を向ければやはり人生とは選択の連続で、ifの並行世界は無限に広がっているんだなと痛感する。あの時泣けていたら、弱音を吐けていたら、もっと威勢を張れていたら、もっと力があれば、いろんなことを考えては、ちょっぴりの後悔と今への慈しみを感じている。

 

1月が終わった。時間というのはどうして極端に長く感じるか短く感じるかの2択なんだろう。見えない誰かのことを祈ることが多いひと月だった。それは並行世界の自分だったり、今は会えないけど同じ世界で頑張っている友人であったりした。

 

倫理について最近、少し考える。公共のために奉仕する精神をあまり理解できていない。中学生の時に教科書を読んで、概念を知りはしたけれど、それ以上に何かはない。CDをたくさんくれた友人の父親や、豪勢なディナーをご馳走してくれた父くらい歳の離れた大人など、先輩方から何かを引き継いで「私」がいる感覚はあるのだけど、そこに公共という大きな概念の姿をあまりみていない。

 

ずっと私の中に、「私」も「公共」もハイジャックしてやる、という気持ちがある。自由意志や決定する力が自分にあるのかは分からないし、「私」を私たらしめるものも見当つかないけれど、だからこそ自分でそのような曖昧なシステムを乗りこなしてやる、と考えている。相手からのギフトを無根拠に確信して、それについて純粋に喜び、驚かされていたい。あくまで絶対常識の範囲内でね。と最近は強く思う。

 

加速主義に絡め取られることへの恐怖がある。大きな流れに乗ることで、いつのまにか大きな波にコントロール権を奪われてしまうことへの恐怖。それによって、本来守りたい自分の信念や友人を傷つけるかもしれないということ。カッコよくありたいけどそれは難しい、だとしても、自分にとって自分がダサくならないことをとても意識する。心から自分を愛したいと今は思う。愛するという「技術」は難しいからこそ、私はそれを修練したいと思った。

 

ディスコ・ファンクの煌びやかな輝きと、それが永遠に続かないことへの儚さ、切なさ。最近はBruno Marsが好きだ。一切は終わってしまうということを信じたくないが諦めるべきなんだろうな。変わり続けることが変わらないための第一条件なんだと思う。寂しいね。

 

共依存ではなく、共助の関係性。愛し愛される関係性。たとえそれがビジネスの観点からしてナンセンスだとしても、どれだけ難しいことだとしても、持っていたい。よくわからないシステムに絡め取られたくない。不惑という言葉はとても難しいのだろうけど、愛と不惑を念頭に置いて生きたい。

2020 Blue.

「It's All Over Now, Baby Blue.」ボブ・ディランが寂しげに弾き語るアルバム最後の曲。全ては終わったんだよ、と1965年の声。

 

全て終わってしまうから、という諦観がある。"私"と"あなた"だけしかいない世界はやがて引き裂かれる。不健康だから。「It will be all over, baby blue.」出会いの数だけ別れがあるという言葉の残酷さ。喪失は全て"喪失の獲得"である、なんて菊地成孔がラジオで喋っていた。友人が髪を切ったことに気が付けなかった。「You cut your hair but you used to live a blonded(=blinded) life.」永遠が欲しい。最果てが見たい。決して引き裂かれないために一つになりたい。

 

「愛されたいね」って言葉の響きが虚しくなかったことがない。「愛するということは、愛するその人を通して見る世界、その人がいる世界が輝いてたまらないということだ。」なんてエーリッヒ・フロムの名言。お見それしました。でも、その輝きは花火のようにすぐ消えてしまう。人生は花火じゃないから、美しさや快感には後処理が必要だ。それはもう、ただただ虚しい。かといって、何もキラキラしない世界は死にたいなんてレベルじゃなく退屈で、心の揺れない人生に価値はないのだと思う。暴動がしたい。

 

結局、自分のことなんて全然分からない。構造や文脈を頼りに分析を試みるけれど、そうやって強がりのために身につけたものを全て引き剥がした時、自分は一体どんな姿なのだろう。なんて思う。もしも、ぼくのりりっくのぼうよみのアルバムを聞かずに生きてきたら、もしも、小袋成彬に全く関心を持たずに生きてきたら。自分が自分を監視カメラで見てるような気持ち、という表現はぼくりりの1stアルバムリリース時のインタビューで見た言葉で、騒いだり冷めたりと何人も自分がいて脳内で戦い合っているコンセプトは小袋成彬の表現だ。今では身体化してしまったけれど、それが身についたのは経験や宿命ではなく、模倣の成果だ。私ではない。私が、私として得たシグネイチャーは何だろう。

 

あらゆる模倣を取り払い、実際に起きた体験と後悔を素直に感じ取り続けた末にいる自分はどんな顔をしているのだろう。泣いているだろうな。今まで傍観者を気取ってたくさんの人が傷つけた。傷つく様をただ眺めていた。罪悪感は人並みに。後悔は過多に。反省はほんの少し。そんな感じ。

 

人にプレゼントすることが好きなのは、自分に価値があるような気持ちになれるからだ。誰かにとって、明確に価値あることをできているという安心。裏を返せば自分という存在が相手にとって愛を送るに値しないと思われているのではないかという恐怖。いつか返すねと言われたものが返ってこないことが多い。きっと見くびられているのだろうな。よく人から言われる私の優しさの正体は、ただの恐れの感情だ。愛の渇望と拒否されることへの恐怖。自己承認欲求なんて卑しい言葉でまとめたくないけれど、その言葉が示すものからこの感情は遠くないことを否定できない。

 

父親は、機嫌が悪いと人格を否定する言葉を軽々と吐く人間だ。基本的に一緒に遊んでくれるし、よくご飯に連れていってくれるから嫌いではないけれど、ここまで私が自分の人格を空虚なもの、透明なものとして認識する要因に恐喝への恐れがある。カーステレオのBluetooth接続が何も言葉を発されないまま切断され、自分の好きな音楽が否定された瞬間にフラッシュバックする恐ろしさは、同じ質感を持って生活の様々に潜んでいる。

 

小さい頃から、作り話が好きだった。iPhone4のメモ帳に自作のヒーローを考えているような幼年時だった。ターゲット層である私が考えるヒーローなのだから人気になるに違いないだろう。企画者たちに私のこれを見せたいなぁといつも考えていた。妹と2段ベッドで眠っていた頃は自作のファンタジーを言い聞かせながら眠りについていた。ファンタジーやヒロイズムへの逃避願望はずっと、根底にある。

 

中学生の時に真正面から恋愛をした際には、堰き止めていた感情が流れ出して相手が好きという気持ちで胸がいっぱいになった。高校の3年間は、ずっと感情が虚無の果てへと漏れ続けるような日々だった。今でもオイディプス王のような、もしくはカフカ少年のような、「もしかしたらこの人は私の救世主かもしれない」という期待を日々、数多の人々へ重ね、失望し、沈んでいる。私は、私よりも愛が重たい人間を他に知らない。

 

とても小さな、願掛けのよう依存を多くの人へ託すことで、生き抜いてきた。人に過剰に期待する一方、絶望に打ちひしがれないために壁を作ってしまう。確かな友情や繋がりだと思うけれど、その関係性は総じてどこかやはり、虚しい。希死念慮が顕在化した時には、多くの人々から支えてもらっていることを痛感する一方、それぞれの繋がりが脆いことも同時に感じ、絶望を深めた。

 

気付きたくないことに気がついてしまったり、現実での失望が夢の中でハッピーエンドで再演されてひどく陰鬱な気持ちで生きたり、伝えたいことが伝わらなかったり、伝えることを諦めてしまったり、どうしようもない夜に電話をする相手が忙しくなったり、いなくなったり、する。気がつけば咳をしても1人。それはもともとかもしれない。笑 

 

これは自分ではない誰かの役割なのだ。と分かる瞬間がある。ここにいるべきは自分ではない。自分がいてはならない席ではないかもしれない。だけど、私も他者も満たされない状態を作り上げてしまうということに気づくことがある。「Not for me.」私は私を真の意味で全く無価値に感じているのかもしれない。深層心理や癖について、自らの眼差しの形について、私は私のことはまるで理解していない。私が、私の役割はこれであると感じられる瞬間って本当に少ない。世界は私を待っていない。という前提。

 

名前を呼ばれること。名前を呼ぶという決心がされたこと。それだけで嬉しくなる自分はきっとどこか感情が貧しいのだと思う。貧しさは不幸の由来となることが多いけれど、時に幸せを招くこともある。何でもないようなことが幸せだったと思う、ロードの歌詞は重い。

 

どこかゆらゆらとした浮遊感がある。自分というものが否定されるような瞬間、もしくは説教されていた少年期、辛くてたまらなくなると自分という器から魂が抜けるような感覚があった。視界が斜めになって、どこか俯瞰的になり、見える世界が渦巻き始める。その感覚がデフォルトに存在するようになっているかもしれない。まるで水の中に沈んでいるような、何かの中に脳みそが浸されているような感覚。

 

全てが終わると思っているからこそ、無駄なことなんてないと思っている。それは逆説的に全てが無駄だと思っているからだろうな。私が何かを残すことで人に影響を与えれるのだろうか。きっと今死んでも3ヶ月後にはみんなおいしくラーメンを食べている。ふと、新しいパーカーが買いたいというくらいの気軽さで死にたいと思う。歪んだ構造に組み込まれた私に、あまり明るい未来が見えない。セカイ系の衰退の理由は、世界を変えるのではなく自己を変革するという考えがオカルトに接近した結果、社会を壊すカルトへと変貌する危険性が実際に顕れたからだという考察を最近見た。本当に死にたくなった。魂の解放なんて本当に胡散臭い言葉だけど、私がやりたいことは、きっとそういう言葉に形容されるようなことだ。

 

何をすれば人は私を愛してくれるのだろう。大概のことは器用にできるし、希死念慮からの逃走や解毒も慣れたものだけれど、人から愛されることだけは本当に分からない。憧れられたり、頼りにされたり、何かしらポジティブな感情が向けられていることを感じることはある。しかしそれは、まるで第三世界のように1つ、レイヤーがある。絶対的な"あなた"の世界から除け者にされている。私の世界に私以外の人間がいない。誰も私の背中が見えていないように思う。

 

ある程度ある。四捨五入すれば幸せな生活を過ごしている。しかし、満たされない。曖昧に引き裂かれた感情のまま、ゆらゆらと生きている。

17(+2)

 お金があれば幸せか?お金のない学生の今でも、友だちがいて、繋がれる手段があって、夢みられるものがたくさんあって、十分なくらい(満たされるわけでもないが)幸せじゃないか?あと一歩の、だけど決定的な欠落感があることは否定しないけど。だけどそれはお金によって満たされるものなのかなぁと思う。

まだ でも誰もできぬキスがしたいの

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 これは岡村靖幸の19(nineteen)という曲の一節なのだけど、本当に欲しいのはこういうものなんじゃないかって思う。とっておきの秘密とか、それの意味を全て塗り変えてくらい鮮烈な体験だったり、本当にかけがえのない友人だとか、そういうのがあれば幸せだなぁと思う。ひとりで飲むフラペチーノより幼なじみと飲むセブンイレブンのゆずれもんの方がおいしい気がする時ってない?