Makers U-18 2021

<前提>

 

美しい文章はすでにこの世に腐るほどある。言葉で感動したければノルウェイの森を読めばいい。新たな視野を獲得したければカズオ・イシグロの新作を読めばいい。新世界を作りたいならホモ・デウスを読めばいい。つまり、俯瞰的に眺めれば僕が文章を書くことに意味や価値はない。ただ時間が奪われ電気エネルギーが使われ環境が悪化していくだけだ。内輪的な熱を開かせる必要は、PRの要請がない限りほとんどない。むしろ中途半端に内輪ノリをひけらかしても気味が悪いだけだろう。

 

そして極め付けに、言葉は真実を映さない。例えば僕たち。「今、ここ」から1週間くらい抜け出し嵐の中へ飛びこみ、たくさんの苦楽を体験した。そうして「今、ここ」へ帰ってきた。嵐が通り過ぎる前と状況はほとんど変わっていないに関わらず、その目に映る「今、ここ」は明らかに違う。しかしそれを言葉に表すのは難しい。色んな人のnoteを見たが、その言語化を完遂した人はまだ見ていない。

 

この世は全てがフィクションであり、全てが何かのメタファーだ。カップラーメンにお湯を注ぐ丁寧さはコーヒーを淹れる技術と繋がるし、授業のノートを上手に取るテクニックの大部分は人の話を上手に聞くテクニックへと転用できる。何もかもが無意味であると同時にささやかな希望として意味を持っている。そう、いつだって言葉は二面性を内在している。希望と絶望、破壊と再生、勝者と敗者、男性性と女性性。最後者が象徴的だが、極端な二面を眼差しているだけでは分断を加速させるだけだ。大事なのは、それがグラデーションを持っていること。曖昧さを肯定すること。素晴らしいけど、その途方もなさに目眩がする。

 

つまり、言葉は無力なのだ。ただの器であり、頼りない再現装置でしかない。しかし厄介なことに、無力というのも言葉だ。その引き裂かれるような矛盾を眼差してようやく、僕は自分の言葉で語り出す自分を肯定できる。

 

<参加前>

 

起業家高校生が好きじゃなかった。自分は与えられたコミュニティ(学校のクラスや部活や...)に馴染めきれなかったという卑屈さと、そういった人たちにはなし得なかったことを自分はしているのだという歪んだ強がり、他者を蹴落とした自己肯定の形を取っている人が多いように感じられていたからだ(よく僕は選民思想ルサンチマンを履き違えた奴らと呼称している)。

そしてこれには同族嫌悪があることを僕は否定できない。でも、これを否定できる人いないでしょ?社会と教育が今の形を取っている限り僕らは競争から逃れられないし、自分の幸せは誰かの不幸せを相対的に眺めて、時には犠牲にして成り立っていることは事実だ。嫌なら目を逸らすしかない。目を逸らす自分に嫌悪感があるなら、なるべく誠実に眼差しを向けるほかない。僕らは不完全な人間だから100%の愛も誠実さも持っていないし、幸せに満たされることは極めて難しいのだろうけど、他に道が思い浮かばない。抗不安のために何をしよう。死にたいわけではないが、生きたいわけでもない。やりたいことやわがままに付き合ってくれる友達がいて、一緒に思い出を作れる現在に美しさを見出せているから生の方向に活力が向く。そんな日々だった(今でも変わらない)。

 

漠然と好きじゃない所謂“起業家高校生”的な人たち、そのモヤモヤとした嫌悪感が自分の中で渦巻いているのが嫌だった。嫌うならちゃんと嫌う理由を抱きたい。好きになれるなら好きになりたい。星野源の歌詞からの引用だが「無駄だ ここは元から楽しい地獄だ 生まれ落ちた時から出口はないんだ」。ならば、少しでも世界を愛するために好きだと思えるものを増やすことが大切だ。好きが増えれば世界は今以上に輝く。新たな好奇心を得るため、自分の中で断絶の線を引いてしまっていた属性の人間を真っ直ぐ眼差すため、東京へ行き様々なアクションを起こすため、そのために応募した。

 

応募を決意した時には募集締め切りの1時間前だった。記述欄がたくさんあることにその時気がついた。幼馴染に電話をかけ、タイムアタックだと自分に言い聞かせて文章を紡いでいった。今までに書いてきた文章を参考に現在の気持ちや挑発的な態度を織り込みながら、締め切りの2分前にギリギリ完成。文章の細部は拙いが、内容的には自信があった。これで落とすならMakersもセンスがないなと思いながら眠りについた。

 

Zoomでの面接日程を決めるメールが届き、あまり準備することなく面接に挑んだ。その後、アジェンダワークでメンターをしてもらう詩歩さんが担当してくれた。自由に時間と画面共有の権利をもらったので自分で書いたnoteに沿って今までやってきたことを話した。「君さー、文章と喋る感じ全然違うね。」と言われる。持ち前の自信とアドリブ力で喋りたいように喋らせてもらい、手応えを少しは感じながら終了。高校の先輩に「多分受かったわ〜」とLINEを送る。

 

「ハミダシ高校生ってなんだよ嫌な言葉だなぁ」「ホームページ、かっこいいこと書いてあるけど内容圧縮させたら何も書いてないじゃねぇか」などと言葉の細部にグチグチ言う日々を過ごしていると合格のメール。その夜は五体投地しました(尺度として機能していたところやフレーズとしてのポップさはイベントで痛感下が、終了しても全然、言葉は好きになれていない)。

 

<アジェンダワーク>

 

破壊と再生のサイクルを繰り返す日々。正しさの敵は別の正しさなのです!0→1がなんとか...って言う人がいるけど、その+1を生み出す発想は生活の中で取得した経験に由来するでしょ?ならそれは0から生み出していなくないですか。要するに、僕らは2020年代にここで生きている時点で誰かの模倣品であることを否めないんだと思っています。様々な要素のコラージュアートとしての"私"。ならその要素同士が検討もつかないところから繋がり合えば独自性を獲得できるよね。そうやって自分にしっくりくる要素を積み上げていくこと。

 

そういう考え方の上で3日間、めちゃくちゃ楽しかった。自分では打ち立てられない独自性を獲得している同世代の人たち。年齢にこだわりはあまりないけど、似たアンテナで違うものを受信してきている、つまりワクワクできそうな確率が高いから面白い同世代が大好きです。集合知を感じる機会も多かった。フランス語の文献に当たれる人間がいるなんて。

 

試行錯誤できる環境だったから、試行錯誤をしていた。それでもし迷惑をかけた人がいたなら、ごめんなさい。自分なりに、懸命になりながら走った3日だった。その選択に正しさもどうしようもない間違いもあった。それはもう、ただただ事実だ。以上も以下もあるけど、どうだっていい。

 

しかしこれは、焦点をズラすと「僕らはどうしようもなく別の人間だ」ということへの眼差しでもある。分かり合えなさへの諦観。心の壁を作ってしまっていた。壁を溶かしたい意思は色んな人に話せた(自己開示が苦手な僕としてはすごいことだ ありがとう)が、それ以上に何かはなかった。「〜しよう」というあらゆる行動は、脳が考えだす前から始まっている。つまり脳は行動結果を写す鏡でしかなく、そこに真の意味で自由意志はない。ということを3年前くらいに本で読んだことがある。僕たちはアーキテクチャの奴隷なのだろうか? 

 

人に期待しないことはできないが、夢を見続けられなくもなってきたと思う。痛みや切なさに慣れてくる。そのタフさはどうしようもなく寂しい。人を見て、自分を見て、その違いを眺めて、時には責めて。ずっと自己分析をしていた3日だったなぁと思う。後半3日の何倍も自分を見ていた。

 

<ブレイクタイム>

 

アジェンダワークが終わってからZoomでのイベントに移り変わるまでの間、色んな人と色んな話をした。大勢でいる時と2人でいる時で印象がガラッと変わる人、見ていて辛くなる人、惚れ惚れするほど美しい反面、どこか哀しさが引っかかる人、一緒にいる時の自分が好きと思える人、言葉と違う領域での、確かな交感ができた人、共通言語が全然見つからない人、、、色んな人がいて、色んな喜びがあって、色んなブルースがあって、色んな折り合いの付け方があるなぁと思っていた。

 

アジェンダワークが終わた途端にトロトロになる人。夜が更けるにつれて隠していた影が濃くなる人。自らを軽薄だと思って内省する人。シラフに戻った時の虚無感に怯えパーティーをやめない人。ガストでずっとニヤニヤしている人。そんな中、自分は何なのだろう。ずっと考えていた。諸行無常な世界だということは散々痛感してきたのに、懲りずに人と繋がりたくなるのを、生殖本能が蛇行運転しているだけと片付けたくない。

 

人間みんな様々な面があって、その一面だけで断罪してはいけないと常々思う。しかし正しさだけでは息ができない。「テロリストだって友達と仲良くできる優しさがあるんだから、その面を見つめて許していこうよ」なんて、涼しい顔して言っていられないのが僕らの住む「今、ここ」だ。しかし、諦めないことが大事なのではないか。そう感じた。しかしそれは満たされるまで途方もないことを意味している。虚無感を抱え続けること。冷笑主義に浸っていると自認のある僕にとっては向き合うことに苦しみが生じる。しかし向き合わない選択肢も別の苦しみを内包している。これからどうしよう。迷うというよりは、導かれるのはどちらなのかそわそわしている。多分きっと、わかるのは来年あたりなんだろうか。その頃には、祝いたい。

 

<オンラインセッション>

 

言葉への不信用と過度な期待、さらには人との繋がりを病的に求めてしまう僕にとってオンラインは本当に苦手だ。見えるものが限られる。想像力を働かせる気にもなれないくらいに。まぁそれは適合しないといけないのだろうな。。。(毎日寝落ちていた、まじでゆうなさんゴメン)

 

黒越さんの言葉と向き合い方がとても好きだった。大事なことはチャットに書いてくれたり、逡巡を超越した先からの、人生の先輩からのアドバイス。励みになった。アンリさんの楽しそうな姿勢と、諦めるものは諦める冷淡な姿勢の共存はゾクゾクした。引き裂かれることなくそれを受け入れているのは乗り越えたからなのか、諦めたからなのか、そもそも僕がアンリさんじゃないからなのか。メルカリの社長と宮城さんは、話せていないことも大きいが何も分からなかった。そんなことを言ってしまえば誰のこともわかっていないけれど、そのお二人は、ただいるなぁと思っただけで終わってしまった。うーん、別に何も後悔していないけど、みんな感銘を受けていてすごいなぁって思う。自分はお話を聞いていたらどう感じたのだろう、それだけに関心がある。

 

最終日、コミュニティがフェードアウトしないために1日をかけることに驚きと感動を覚えていた。僕はずっと、いつか終わってしまうからとニヒルな態度で接していたが、気づけば「この関係がずっと祝祭的なまま、形骸化することなく美しいまま、続きますように」と祈っていた。アルケーは水だ。万物は抗えることなく流れていく。小さな悲しみは大きな悲しみの海へと至る。その中でできることは、良いことを決意するくらい。そして祈ることくらいだ。

 

<終わり>

 

何を得たのかは分からない。限界値を超える勢いの自己肯定感の高さと、擦り切れるくらい失われている自己愛の不足に引き裂かれゆらゆらする日々は続いている。今でも音楽に逃避を求めてしまう。

しかし、役割が流動的であり(それは関係性が確立してないからかもしれないけど!)、それぞれにそれぞれの、しかし一定以上の想像力があり、不安定な世界を見つめられている場所があったこと、そこにいた自分が様々な揺らぎ、気付き、苛立ち、喜び、劣等感、優越感、無敵感、希死念慮の上で踊り続けたことは自覚し続けたい。きっとすぐにこれは過去になる。今よりもっと美化された思い出になる。喪失は避けられない。喪失は喜ばなくちゃいけないって菊地成孔の言葉。

 

未来は過去の意味合いを変えることができる。それは恐怖でもあり希望でもある。30年後の未来が楽しければいいな。そう祈るばかり。

 

https://youtu.be/pSuTnLE1Vio

 

追記: https://note.com/blond/n/n78bb5f268097

ブロンド(A)

自分を含めてみんな、期待しすぎだと思う。誰にでも見える140文字に本当のことなんて書くわけないじゃないか。

だけど100%の嘘なんてないのもまた事実だ。だって表現は表現である時点で他者が存在しているし、その表現を用いたことは真実となってしまうのだから。結局みんな0でも100でもないつまらなさの中で生きている。つまらなさの集積の中に真実はあるし、一つの要素で何かを見定めることはできない。象徴はあくまで象徴であり、それ以上の意味を持つことは多くない。

 

愛されたいという言葉は何も言っていないのと同じだと思う。だけど何も言わないことが悪いこととは思わない。だって、何も言えないくらい最悪じゃないか。恋人じゃなくて父性だったり、母性だったりが欲しいのだろうなって人を眺めて胸が引き裂かれること、あと何回すればいい?自分の中でそういう気分を見つけて自己嫌悪に苛まれるのを、あと何回すればいい?

 

生きてりゃ嫌なことたっくさんあるけど、それを人に向ける邪悪さと醜さ。辟易しています。どこもかしこも汚い。みんな頑張ってることは知ってるけど、実際あんまり分かってない。でも俺以上に分かってないバカたちがそうやって気持ち悪い連鎖を紡いでるんだろうな。できるだけ好奇心で世の中をキラキラ眺めていたい。煌びやかさに酩酊していたい。じゃないと死にたくなるので(笑)

 

自分の人生を厚みのある物語と捉えられている皆さん、すごいです。誰もが自分の人生のアマチュアなんだよ。精神的な逡巡を誇るの、とっても可愛らしいです。破壊と再生、喪失と獲得を繰り返してるだけじゃん。何を得たのか並べてみたら、何もないことに気づく。まぁ、主観の押し付けが1番汚らわしいか(笑)2回連続で自嘲でオチるのは甘えですね。うーむ。

 

みんな新型の一眼レフと新作のエアフォースのために頑張っててすごい。シャッター速度は羨ましいし俺もNikeの靴は好きだけど、疲れない?疲れないのか。どうしてこんなにも熱狂に乗れないのだろう。ずっとくたびれている。この世はもっと素敵なはずっていうのは、今の世界がみんなにとって素敵だとしてもNot for meと感じているから言っています。まじでケラケラ毎日笑ってるけどさ、ハイだけどね(笑)じゃないと落ちるじゃん。俺が落ちても誰も面倒見てくれないでしょ。なのにみんな優しく声だけかけてくるじゃん。どうせなら肩くらい叩けよな〜。繋がりは感じられないまま今日。

 

くだらない共創意識に、くだらない選民意識。みんな俺のことは気にしていない、でも気にしている。どうでもいいよ。みんな俺のことが中途半端に好きだよね。色んなことをやいのやいの言って、企みかけて、消えていく。疲れる(笑)あなたと話すより藤井風聞いてる方が学びあるわ〜って人たっくさんいるよね!これは自分にまっすぐ跳ね返ってくるのですが......

 

みんなの好きなように俺を見せてあげるよって気持ちがある。みんなの好きにしなよ。そこにもどこにも俺はないし。オリジナルなんて無いよ。庵野さんが言ってるって知る前から俺も思ってる。自由に引き裂いてくれ。もう飽きましたし、諦めました。秋風記が参考書かな。

 

トキヤって友達が「どこに生きているの?」ってsnsに書いていた。最初はうるせえなって思ってたけど、すごく心にくる。どこに生きているんだ?いったい俺は何をしているんだ?何がしたいんだ?全てわからない。悪魔が体を乗っ取っているとか、そういうわかりやすい悲劇が欲しい。けどみんな、何かに取り憑かれているよね。かつて好きだった人が俺の周りにはたくさんいます。今に生きていないな俺は。4月になれば色んなことが過去になって、喪失は風化していって、また強がることになるんだろうな。アユミが遠い場所に行くこと、すごく怖いのかもしれない。

 

雨、煌めき、世の中には影があるから光がある。嫌いと好きはセットだし、快感には後処理が必要だ。

 

踊ることと生きることが同義というのはすごく頷ける。みんなが踊っている。決して一つになれないことを悲しみながら踊っている。全ての音は舞踏歌だし、ある種の鎮魂歌だ。欠落は原罪だと信じている。じゃないと辛すぎるだろ。

 

大事な人になるということ、欠落を埋める存在になることを求めている。"彼"に俺がなれる未来を想像できない。でも愛を育む。その矛盾はあるのか?無いだろ(笑)別に誰が誰のことを思って寝ているかとか、誰が誰と寝てるとか知りたくも無いけど、その美しさと気まずさは受け入れたい。受け入れることは自分を許すことだろう。

 

みんな何かしらに引き裂かれているし、孤独に首を絞められているから、生きるためになりふり構っていられないんだろう。別にそのために俺を踏み台にしても諦めてるからいいけど、ならせめて楽しそうにあれよって思う。競争社会、行きすぎた資本主義に期待はしていないし、権威をうまくハイジャックして乗り越える他に生きる道はないと思ってるけど、そのキモいシステムに縋り付くなら縋り付くなりに惨めさを出してくんなよ。自分もうまく乗りこなしていないから大馬鹿なんだけどさ、みんなも馬鹿だよ。

 

別にいつでも俺は"あなた"のことを嫌うことができるし、"あなた"も俺を嫌うことが当然できる。でもどこか精神的な結びつきを(本当にあるかわからないのに)期待してしまうから、ほっそい線で繋がっている。心の奥底で共鳴したと錯覚したことは、果たして良かったのかさらなる不幸となったのか、わかるのはだいたい来年くらいだろうな。それまでみんな生きててほしい。(心の奥底から思えているのか?)何もかもしょうもないよな、でも俺らは絶対に友達だった。愛なんか紙とペン以外で伝えてたまるか。神も天もないね〜って思います。

 

自分の中の肉体的な欲求はあるけど、それを汚いと過度に思ってしまっているし、男性性の中の弱さを本当に軽蔑している。というより軽蔑しないといけないという巨大な強迫観念がある。

 

強迫観念。

 

自己開示ができない。誰のことも信じられていない気がする。少なくとも泣くほど弱くなれる人はいない。頭を撫でられたいというような弱さを自分の中に見出せるけど、見出したところでそれを認めて表出できない。その塞がりようを惨めだね〜って悲しむくらいだ。

 

言う必要のないことを言ってしまう。それは一つの安心なのだけど、相手にとって知ったこっちゃ無いだろう。ただ傷つけているだけ。ごめんなさい。あまのじゃくだからで許されるのは10年くらい前に通り過ぎた。

 

大人びた子供でいたいと強く思っている。決して居続けられない席。少なくとも周囲は大人になっていく。今のままだとわがままなガキになるか、(真に)つまらない大人になるかの2択なんだろうな。俺は俺なので、今の俺のままいたら面白い未来がありません。

 

幸せな夢、ifの夢をよく見る。起きて落ち込む。この世界が好きだけど、並行世界に思いを馳せてしまう。この世はもっと素敵なはず!ずっと夢に見てるよ。

 

毎日は続いていく。何らかの確かさを持って続いていく。自分でコントロールできることは手で掴めることくらい、つまりほんのわずかだ。今の俺が盲目状態なのも分かってる。それでもそれにしがみついてるのは幼稚だからなんだろうな。

 

空を飛びたいし、楽になりたい。誰かの中で眠りたいし、ここだけが居場所って思えるほど何かに無我夢中になりたい。我が無くなるほど夢の中に。すごいなぁ。

 

寒いと孤独を感じるから冬が嫌いだ。自分は孤独であると感覚レベルで思い知る。たとえ冬でも人生は進むし、友達は輝くし、競走は行われるし、寒暖差はあるのだけど。気がつけば誰かは宙に飛んでいるし、誰かは光り輝いているし、俺は誰かを見下していたと気づく。

 

正しそうなことばっかり!正しいことは寒いことくらいだ。感覚だって不確かか?一回「愛」っぽいものをもらうと犬みたいに期待してしまう。疲れる。それが無いと消え失せるんだけどさ。愛を込めて、親愛なる人よ。親愛(笑)ここからはずっと下り坂だよってフランクオーシャンが思い返します。川はより大きな海に繋がっている。小さな悲しみは、大きな悲しみに取り込まれていきます。私たちの孤独は、巨大なものに引き裂かれ続けています。そりゃ痛いわ!

 

永遠なんて一つもないんだろう?友情も恋愛も終わるなら恋愛でいいじゃん。うるせー。全然に異性愛者な自分を悲しむ気持ち悪さ。普通って何。タバコもアルコールも酔えません。ずっと自分に酔ってるから?どうせ酔えない美酒。怒らないでよ。これが人生さ、人生は永遠に続くのさ。

 

他の誰かになりたい気持ちがある。スーパーマンになりたいよね。でもアイツみたいなのはやだよ。きしょいもん(笑)美しさ〜。自分自身の決断を信じるのよって留守電、俺には来ない。ボイスメッセージが女の子からLINEで届く人生にならないかな〜。CALL ME BYE!!!

 

孤独が深まると性欲が消える。最近とか(笑)男女の友情あんまり信じられないけど、性対象としてより母性の対象として眼差しを持ってしまう方が弊害だと思います!!!死ぬまで満たされないのかな〜、嫌だな〜。寂しいね!でも俺たち孤独なだけでいられないでしょ。だから孤独を寄せ合って"孤独な人たち"になってるんでしょ。惨めかも知れないけど、元々だしねぇ。うわっ、山岡屋食べたい。

 

ここは地球の地獄だよ、街は、もはや街じゃなくて個々人の絶対領域に染み入るくらい、どこもかしこもが怒りで溢れてる。

葉っぱでもいいし、自己陶酔でもいいし、カフェインでもいいし、都合とステータスの良い異性でもいいから取り込むんだ。地獄の中にも天国はあるからさ。

 

1人っきり、孤独。満たされない。報われない。

 

1人なら自分を清潔にしなくてもいいし、自制に意味なんてないのだろうけど。誰かに愛されたすぎて、故に自制心が大きい。惨めだね〜!射精にだって金がかかるし...って言ってたね。いわゆる「白い柵」、手に入れられるのかなぁ。幸せな結婚を見つけられるのかなぁ。

 

札幌の夜でもお楽しみをやりたかったけど、みんな怒ってたし、強がりは強がりのままだったし、俺はひとりなままだったし、なんか、ね(笑)

 

生き続ける。生き延びるんだ。がんばろー。でもさ、なんで生き延びるのか分からなくなって来ている。全然気軽に生き延びられるのに何必死になってるんだ?って考えてしまう。奇行に走りたい気持ちは、生存を、実存を確かめたいからなのかもね。実存、確かにないもんな〜!!!!!!!いてもいなくても変わりません。

 

ゆっくり時間をかけて、長期的な視野で眺めることの難しさ。きっとみんなより俺はそれを意識してしまっている。あまりいいことじゃない。みんな〜!この刹那を信じられる?

 

吸って、ぼんやりしている。心臓が痛い。連絡すれば出てくれる?答え聞くの怖いから何もできないや。我を忘れたいね。ずっと何をしても俺がいるんだ。いったい何人俺がいるんだ?超自我は大きいね。大きすぎて死ね!って思う、うおっ、泣きそ〜(笑)朝までずっと抱きしめてくれ〜!俺も惨めな人間(それが普通なのかもね、普通も変もわからない、俺には何もわからないけど)なので同性にそれを望めなくて、卑しいな〜って自分で思います。

 

不安にさせてしまった多くの人たち、期待に添えなかった多くの人たち。ごめんなさい。満たされないのは相手を満たせられない自分のせいな気がする。近くに住んでいるなら弱みを見せられるのかな、きっとそんなこともないのだろう。お得意の自己正当化でまた壁を作るんだろうな。

 

居場所をくれよ。俺は居場所が欲しいんだ、自分の居場所がね。

 

嫉妬深いし、人のことを信じていない。絶対に報われないじゃん(笑)絶対なんてないんだろうけど、でも高確率で無理だなぁ。

 

時々は、"君"も恋しくなったりしてるのかなぁ。全然想像できないな。孤独は俺だけのものって思うのも一種の傲慢?気持ち悪いなぁつくづく。自己肯定感が育てられても自己愛はしばらく受け入れられない。涙を俺の代わりに流してくれたメイには感謝しないといけない。これもゲームなのか?

 

文面と見た目のイメージが全然違う。んだろうなぁ。引き裂かれている。きっと全部俺じゃない。というのは自己弁護で全部自分だ。そして全部見せかけだ。その実空洞なんだろう。廃人間際。まぁみんなそうでしょ、それを誇りませんよ。って言う客観視自体自己陶酔?低音加熱みたいなテンション。死んでくれ。夜遊びで火傷するくらいが丁度いいのだろうけど、そんな人生が来る気がしません。報われないし、溺れることもできない。もう自分の気持ちもよくわからないんだ。

 

煌びやか

些細なことで葛藤している。体を先に洗うか、髪の毛を先に洗うかだったり、散歩に出るか、暖房の前でぬくぬく暇を過ごすかだったり、友達に連絡を取ろうか、取らないでおこうかだったり。小さなことに目を向ければやはり人生とは選択の連続で、ifの並行世界は無限に広がっているんだなと痛感する。あの時泣けていたら、弱音を吐けていたら、もっと威勢を張れていたら、もっと力があれば、いろんなことを考えては、ちょっぴりの後悔と今への慈しみを感じている。

 

1月が終わった。時間というのはどうして極端に長く感じるか短く感じるかの2択なんだろう。見えない誰かのことを祈ることが多いひと月だった。それは並行世界の自分だったり、今は会えないけど同じ世界で頑張っている友人であったりした。

 

倫理について最近、少し考える。公共のために奉仕する精神をあまり理解できていない。中学生の時に教科書を読んで、概念を知りはしたけれど、それ以上に何かはない。CDをたくさんくれた友人の父親や、豪勢なディナーをご馳走してくれた父くらい歳の離れた大人など、先輩方から何かを引き継いで「私」がいる感覚はあるのだけど、そこに公共という大きな概念の姿をあまりみていない。

 

ずっと私の中に、「私」も「公共」もハイジャックしてやる、という気持ちがある。自由意志や決定する力が自分にあるのかは分からないし、「私」を私たらしめるものも見当つかないけれど、だからこそ自分でそのような曖昧なシステムを乗りこなしてやる、と考えている。相手からのギフトを無根拠に確信して、それについて純粋に喜び、驚かされていたい。あくまで絶対常識の範囲内でね。と最近は強く思う。

 

加速主義に絡め取られることへの恐怖がある。大きな流れに乗ることで、いつのまにか大きな波にコントロール権を奪われてしまうことへの恐怖。それによって、本来守りたい自分の信念や友人を傷つけるかもしれないということ。カッコよくありたいけどそれは難しい、だとしても、自分にとって自分がダサくならないことをとても意識する。心から自分を愛したいと今は思う。愛するという「技術」は難しいからこそ、私はそれを修練したいと思った。

 

ディスコ・ファンクの煌びやかな輝きと、それが永遠に続かないことへの儚さ、切なさ。最近はBruno Marsが好きだ。一切は終わってしまうということを信じたくないが諦めるべきなんだろうな。変わり続けることが変わらないための第一条件なんだと思う。寂しいね。

 

共依存ではなく、共助の関係性。愛し愛される関係性。たとえそれがビジネスの観点からしてナンセンスだとしても、どれだけ難しいことだとしても、持っていたい。よくわからないシステムに絡め取られたくない。不惑という言葉はとても難しいのだろうけど、愛と不惑を念頭に置いて生きたい。

2020 Blue.

「It's All Over Now, Baby Blue.」ボブ・ディランが寂しげに弾き語るアルバム最後の曲。全ては終わったんだよ、と1965年の声。

 

全て終わってしまうから、という諦観がある。"私"と"あなた"だけしかいない世界はやがて引き裂かれる。不健康だから。「It will be all over, baby blue.」出会いの数だけ別れがあるという言葉の残酷さ。喪失は全て"喪失の獲得"である、なんて菊地成孔がラジオで喋っていた。友人が髪を切ったことに気が付けなかった。「You cut your hair but you used to live a blonded(=blinded) life.」永遠が欲しい。最果てが見たい。決して引き裂かれないために一つになりたい。

 

「愛されたいね」って言葉の響きが虚しくなかったことがない。「愛するということは、愛するその人を通して見る世界、その人がいる世界が輝いてたまらないということだ。」なんてエーリッヒ・フロムの名言。お見それしました。でも、その輝きは花火のようにすぐ消えてしまう。人生は花火じゃないから、美しさや快感には後処理が必要だ。それはもう、ただただ虚しい。かといって、何もキラキラしない世界は死にたいなんてレベルじゃなく退屈で、心の揺れない人生に価値はないのだと思う。暴動がしたい。

 

結局、自分のことなんて全然分からない。構造や文脈を頼りに分析を試みるけれど、そうやって強がりのために身につけたものを全て引き剥がした時、自分は一体どんな姿なのだろう。なんて思う。もしも、ぼくのりりっくのぼうよみのアルバムを聞かずに生きてきたら、もしも、小袋成彬に全く関心を持たずに生きてきたら。自分が自分を監視カメラで見てるような気持ち、という表現はぼくりりの1stアルバムリリース時のインタビューで見た言葉で、騒いだり冷めたりと何人も自分がいて脳内で戦い合っているコンセプトは小袋成彬の表現だ。今では身体化してしまったけれど、それが身についたのは経験や宿命ではなく、模倣の成果だ。私ではない。私が、私として得たシグネイチャーは何だろう。

 

あらゆる模倣を取り払い、実際に起きた体験と後悔を素直に感じ取り続けた末にいる自分はどんな顔をしているのだろう。泣いているだろうな。今まで傍観者を気取ってたくさんの人が傷つけた。傷つく様をただ眺めていた。罪悪感は人並みに。後悔は過多に。反省はほんの少し。そんな感じ。

 

人にプレゼントすることが好きなのは、自分に価値があるような気持ちになれるからだ。誰かにとって、明確に価値あることをできているという安心。裏を返せば自分という存在が相手にとって愛を送るに値しないと思われているのではないかという恐怖。いつか返すねと言われたものが返ってこないことが多い。きっと見くびられているのだろうな。よく人から言われる私の優しさの正体は、ただの恐れの感情だ。愛の渇望と拒否されることへの恐怖。自己承認欲求なんて卑しい言葉でまとめたくないけれど、その言葉が示すものからこの感情は遠くないことを否定できない。

 

父親は、機嫌が悪いと人格を否定する言葉を軽々と吐く人間だ。基本的に一緒に遊んでくれるし、よくご飯に連れていってくれるから嫌いではないけれど、ここまで私が自分の人格を空虚なもの、透明なものとして認識する要因に恐喝への恐れがある。カーステレオのBluetooth接続が何も言葉を発されないまま切断され、自分の好きな音楽が否定された瞬間にフラッシュバックする恐ろしさは、同じ質感を持って生活の様々に潜んでいる。

 

小さい頃から、作り話が好きだった。iPhone4のメモ帳に自作のヒーローを考えているような幼年時だった。ターゲット層である私が考えるヒーローなのだから人気になるに違いないだろう。企画者たちに私のこれを見せたいなぁといつも考えていた。妹と2段ベッドで眠っていた頃は自作のファンタジーを言い聞かせながら眠りについていた。ファンタジーやヒロイズムへの逃避願望はずっと、根底にある。

 

中学生の時に真正面から恋愛をした際には、堰き止めていた感情が流れ出して相手が好きという気持ちで胸がいっぱいになった。高校の3年間は、ずっと感情が虚無の果てへと漏れ続けるような日々だった。今でもオイディプス王のような、もしくはカフカ少年のような、「もしかしたらこの人は私の救世主かもしれない」という期待を日々、数多の人々へ重ね、失望し、沈んでいる。私は、私よりも愛が重たい人間を他に知らない。

 

とても小さな、願掛けのよう依存を多くの人へ託すことで、生き抜いてきた。人に過剰に期待する一方、絶望に打ちひしがれないために壁を作ってしまう。確かな友情や繋がりだと思うけれど、その関係性は総じてどこかやはり、虚しい。希死念慮が顕在化した時には、多くの人々から支えてもらっていることを痛感する一方、それぞれの繋がりが脆いことも同時に感じ、絶望を深めた。

 

気付きたくないことに気がついてしまったり、現実での失望が夢の中でハッピーエンドで再演されてひどく陰鬱な気持ちで生きたり、伝えたいことが伝わらなかったり、伝えることを諦めてしまったり、どうしようもない夜に電話をする相手が忙しくなったり、いなくなったり、する。気がつけば咳をしても1人。それはもともとかもしれない。笑 

 

これは自分ではない誰かの役割なのだ。と分かる瞬間がある。ここにいるべきは自分ではない。自分がいてはならない席ではないかもしれない。だけど、私も他者も満たされない状態を作り上げてしまうということに気づくことがある。「Not for me.」私は私を真の意味で全く無価値に感じているのかもしれない。深層心理や癖について、自らの眼差しの形について、私は私のことはまるで理解していない。私が、私の役割はこれであると感じられる瞬間って本当に少ない。世界は私を待っていない。という前提。

 

名前を呼ばれること。名前を呼ぶという決心がされたこと。それだけで嬉しくなる自分はきっとどこか感情が貧しいのだと思う。貧しさは不幸の由来となることが多いけれど、時に幸せを招くこともある。何でもないようなことが幸せだったと思う、ロードの歌詞は重い。

 

どこかゆらゆらとした浮遊感がある。自分というものが否定されるような瞬間、もしくは説教されていた少年期、辛くてたまらなくなると自分という器から魂が抜けるような感覚があった。視界が斜めになって、どこか俯瞰的になり、見える世界が渦巻き始める。その感覚がデフォルトに存在するようになっているかもしれない。まるで水の中に沈んでいるような、何かの中に脳みそが浸されているような感覚。

 

全てが終わると思っているからこそ、無駄なことなんてないと思っている。それは逆説的に全てが無駄だと思っているからだろうな。私が何かを残すことで人に影響を与えれるのだろうか。きっと今死んでも3ヶ月後にはみんなおいしくラーメンを食べている。ふと、新しいパーカーが買いたいというくらいの気軽さで死にたいと思う。歪んだ構造に組み込まれた私に、あまり明るい未来が見えない。セカイ系の衰退の理由は、世界を変えるのではなく自己を変革するという考えがオカルトに接近した結果、社会を壊すカルトへと変貌する危険性が実際に顕れたからだという考察を最近見た。本当に死にたくなった。魂の解放なんて本当に胡散臭い言葉だけど、私がやりたいことは、きっとそういう言葉に形容されるようなことだ。

 

何をすれば人は私を愛してくれるのだろう。大概のことは器用にできるし、希死念慮からの逃走や解毒も慣れたものだけれど、人から愛されることだけは本当に分からない。憧れられたり、頼りにされたり、何かしらポジティブな感情が向けられていることを感じることはある。しかしそれは、まるで第三世界のように1つ、レイヤーがある。絶対的な"あなた"の世界から除け者にされている。私の世界に私以外の人間がいない。誰も私の背中が見えていないように思う。

 

ある程度ある。四捨五入すれば幸せな生活を過ごしている。しかし、満たされない。曖昧に引き裂かれた感情のまま、ゆらゆらと生きている。

17(+2)

 お金があれば幸せか?お金のない学生の今でも、友だちがいて、繋がれる手段があって、夢みられるものがたくさんあって、十分なくらい(満たされるわけでもないが)幸せじゃないか?あと一歩の、だけど決定的な欠落感があることは否定しないけど。だけどそれはお金によって満たされるものなのかなぁと思う。

まだ でも誰もできぬキスがしたいの

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 これは岡村靖幸の19(nineteen)という曲の一節なのだけど、本当に欲しいのはこういうものなんじゃないかって思う。とっておきの秘密とか、それの意味を全て塗り変えてくらい鮮烈な体験だったり、本当にかけがえのない友人だとか、そういうのがあれば幸せだなぁと思う。ひとりで飲むフラペチーノより幼なじみと飲むセブンイレブンのゆずれもんの方がおいしい気がする時ってない?